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津軽弁川柳青森放送−津軽弁の日やるべし会より−
Bカップ がふめでがぶがぶと来たじゃ年だねな・・昔ボインも今はもう かぷけでねがさ腐っていないか) ばさまさ婆さんにかへでみる食べさせてみる)・・婆さんを実験台にしないで 初参り いのちこほいどに(命乞食)ぜこほいど(銭乞食 アイスクリーム売り便所からではてきた用を足して出てきた)・・このアイスなんか匂ってきそうな気が
出稼ぎでおべだ覚えた煙草をやめえねで止られない) くわえ煙草で飯を炊くおがお母さん)・・お母さんが出稼ぎで不良に? おど親父さにだ()案山子ば雀おかねがね怖がらない)・・雀まで親父をバカに わらはど子供たち)はあつままアツアツのご飯さ牛カルビ・・昔はアツアツのご飯には納豆? きんきんばぎりっとにづげでくてみたきゃ煮付けて食べてみたら) 青森の味わんつかちょっと)したおん・・思い出すは田舎の味
わいだっきゃ蓑虫になってまたなってしまった中年だぉん・・サラリーマンの悲哀 かがは無視 部下はカラクジ軽口ぶじまげる 酒飲んでなにわりぃ わむごだね俺は婿)・・頑張れ!お婿さん せみなげばじっちゃがわらし童子のつらになり・・いつまでも純な心を忘れずに でったらなでかいスガマつらら)こ下がっておど(居ない・・冬の出稼ぎ一人寂しく
まげるはずねえ将棋まげだ おどぼげだ 老人ホームの桜もはぱこ花が散って葉っぱだけ 盆すぎてメンタクサレんど帰省した馬鹿息子親子のネー弁が(東京弁) きげねぐなって聞けなくなって) まだじこばばの村(過疎の村 夜遊びの猫も親父も帰ってこね来ない)・・猫といっしょにするな
津軽弁川柳9選 ※翻訳 ボイス23連発クリック!
1.セクハラて!?おめだきゃ安心 だもかもねはで
*セクハラも、不美人に対しては誰も近づかない
(おめ・・あなた かもね・・近づかない)
2.試食品、そらはどかねたて わがるべな
*そんなにいっぱい食べなくても、味はわかるでしょう
(そらはど・・そんなに かね・・食べなくても)
3.あごー二重、はらー三重、かだー五十
*太ってる女の人の事
(かだ・・五十肩)
4.手どふとじ 色したするめ おどが干す
*手と同じ色のするめ、父が干している
(ふとじ・・同じ おど・・父)
5.歳いたきゃ までこに見らさる 死亡記事
*歳とると新聞の死亡記事を丁寧に見る
(までこ・・丁寧に )
6.冬のけど わげ車ほど けつふって
*冬の雪道、若者の車ほど後輪がスピンして尻を振る
(けど・・道路)
7.キャミソール ぶだ肉カラガクたかだの紐
*キャミソールの紐が、豚肉を縛っている紐のように肩に食い込んでいる
(カラガク・・縛る)
8.でたらだ スガマこ下がってオドいない
*大きいツララが屋根から下がっている時期、父は出稼ぎで居ない
(でたらだ・・大きい オド・・父)
9.おどさ似だ カカシば雀 おかねがね
*父に似たカカシを、雀は馬鹿にして怖がらない
(おかね・・怖い)

 ブラジャーの会社で変わる かちゃの乳 昨日はモンブラン今日はボダモチ・・
わのソナタ 時の彼方さ いてまたでぁ・・自分、行って
ちけばたて のれそれとげ 歯医者様・・近い、どこまでも遠い
かじょこした ママが見送る 影法師・・勘定
パソコンは
ちょへでも りんごはむげない子・・操作できても
百歳の生命線が みつかぷん・・ふっくら寸足らず
いぎでらがぁ 年金がらのラブレター・・生きていますか?
家計簿さ 
わんつかオガのおしょぐある・・僅かに妻の汚職ある
ままつぶでねぱげだ じっちゃの やへまっこ・・ご飯の粒でくっつけた、少しだけのお年玉
わらはどが やがぐってぶかす 薄氷・・童子が我を争って壊す
さわやかや 村長室の
がぶわらし・・悪童たち
初雪はてっこさのせではしゃぐばて かまってもらえぬ
とつぺのひとひら・・最後
知らねふり聞けねふりし手伝だわね そろそろ
かっちゃも 家事民営化・・
離婚して
わらしとらえで犬残ごた やだら泣ぐなでぁ 泣きてのだね・・子供とられて、そんなに、自分
生きてきて やり残ごしたごと指折ってだ バサマそばがら今月なぼ足りね
きまやげで かがは鎌もってぼっていたきゃ かがは鍬もって下段の構え・・悔しくて、妻、追う
見合いして断わった
メラシレジうってだ 睨まいで買ったスタミナ弁当・・
三途の川
どのぐれふけべてばさまきぐ なも苦しな 今フェリーあるね・・どのくらい深いか、何も心配するな
口紅ど 眉書ぎわすれだ白粉の 大福
だいんた顔さ赤面・・みたいな
ご破算でねがいましては電卓ば 
かしげではらったとっちゃ赤面・・傾ける
痛でがったら手こあげへって歯医者様 痛でってあげだきゃ我慢しながだど
たまに
めものくにいぐべどしゃべるオド このまえへでたの昭和であたね・・うまいもの、連れて行ったの
めごいでぁな かっちゃの寝顔ばほめだっきゃ 見送ぐり寝顔迎がえも寝顔・・かわいい、妻


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○津軽弁は言葉が短くなるのが特徴です。
その例としてよく使われる会話が
 A「どさ」(どこへ行きますか)  
 B「ゆさ」(銭湯へ行くところです)
 ですが、小泊村出身の歌手三上寛さんがある本におもしろい会話を載せて
いたのが記憶にあるので紹介しましょう。五所川原駅での男子高校生同士の
会話だそうです。

 A「な、くな」 (あなた、食べますか)
 B「く」    (食べます)
 A「か、け」  (さあ、食べなさい)
 駅の構内の売店で一人の高校生がお腹がすいたのでパンでも買って食べよ
うとしたのでしょう。
片方の高校生にお前も食べるかと聞いたところ食べると答えたのでパンを分
け与える情景が浮かんできます。文字にするとたった6字です。なんと効率
的?な会話でしょう。

 ところで、津軽弁の「け」にはどういう意味があるでしょうか。
 「食え」、「かゆい」、「呉れ(物などをよこしてください)」、「くれ
(〜してください)」、「毛」、「粥」などです。もっとも微妙な長音が付
いたり、イントネーションの違いがあります。  

○横浜礼子著介護学生のための三つの津軽ことば(2003・路上社)という本から
いくつか紹介しましょう。


<世話される>
 きびいい 〜非常にうれしい、こきみよい、めでたい
 さぱどす 〜気分爽快、気持ちが晴れる
 あずましい〜心地良い

<コミュニケーションをとる>
 あでこ 〜相手、友達
 あへんど〜相づち
      「あへんどとる」は相づちを打つ
 あえどり〜合取り(餅をつく時の相方)、話の聞き役

 これらは介護された人の感謝の気持ちや、介護には患者と家族や関係者と
のコミュニケーションが大事ということを端的に言い表しています。
 自分の職場やグループなどで通用する「三つの津軽ことば」を考案してみ
るのも楽しいことではないでしょうか。 

○津軽弁で使われなくなった言葉は次第に多くなってきています。身体の部
分名称でも同様ですが、次の言葉は今どのくらい使用されているいでしょう
か。

頭部〜アダマ  頭頂部〜アダマノゴデン  うなじ〜ボンノゴ
額〜ナズギ  目〜マナグ  引っ込んだ目〜エドマナグ
出目〜ヌゲマナグ  眼球〜マナグタマ  口蓋部〜アゲタ
耳の前の毛〜ビンケ  小鼻〜ハナブグロ  鼻のてっぺん〜ハナノゴデン
首〜クビタ(クピタ)  前胸部〜ウナガラ  乳房〜チチタブ
背〜ヘナガ  脇腹〜ワキパラ  肘〜ヒザスエ  膝〜ヒジャカブ
尻〜ドンズ  尻の肉〜ケツタブ  太股〜ヨロタ  すね〜スネカラ
かかと〜アグド

 身体はカラダですが、医師の故成田紀夫氏によると「カラダ、ドゴモ、ワ
ルグネケド、ヒジャカブ、ヤメデシ」(身体はどこも悪くはないけれど膝が
痛くて)などと患者が言ったりすることから、このような津軽弁のカラダは
内臓疾患、その他全身病を指すことがあるようです。ちなみに、体格体型は
カラダツギです。   

○ 津軽弁で食事のことを「まま」といいます。
 「もう、まま くったが」(もう、食事はすみましたか)また、「まま」
はご飯のこともさします。味噌汁、おみおつけは「オヅゲ」と言います。
 「わさ ままど おづげ け」(私にご飯と味噌汁をください)

 津軽のことわざに「あっつ ままさ なっと」(熱いご飯に納豆)があり、
組み合わせがぴったりだということでした。これは庶民の美味しいものの代
表でもありました。

 「あっつ ままさ すずご」(熱いご飯に筋子)というのもあります。こ
ういう美味しいものは、がっついて食べたりします。そうすると「そったら
に ムタムタド かねたて ゆったど くいへ」(そんなに がっついて食
べないで ゆっくりと食べなさい)といわれます。

 今のような梅雨の季節だと食べ物も腐りやすくなります。腐ることは「あ
める」です。
 「わんつか あめだ ままだば 水さ うるがして くうはんで なげる
もんでね」(少しだけ腐ったご飯だと水に浸してから食べるので捨てるもん
じゃない)と嫁が姑にいわれたりしました。
 「しけぐ なったキウリも 水さ うるがして おげへ」(酸っぱくなっ
てしまったキウリ(漬物)も水に浸しておきなさい)

 昔は食べ物を大切にしたものでした。

○ 他県の小・中学生に限らず一般の人でも、青森県の方言は単一だと思って
いるのではないでしょうか。
青森県の言葉は津軽と南部・下北でかなり異な
るということをまず最初にことわっておき、この内の津軽の方言ということ
で回答を出しています。

 いくつかの標準語を書いてよこし、それを青森では何というかという問合
せがよくあります。中にはあいさつ言葉もあってその回答を書いていたとき
のことでした。
 標準語「おはようございます」〜津軽弁「おはよ(え)ごす」
「こんにちわ」は? ここで一瞬手が止まり「津軽弁には無し」と書きまし
た。「こんばんわ」は「おばんです」でよいとして、昼に人が出会ったとき
に津軽の人は何というか改めて考えてみました。

 AさんとBさんが昼に出会ったときに例えば
 A「なんぼいい天気だのー」 B「ほだねしー」
といったあいさつが交わされるのではないしょうか。

○ 「津軽」という地名について〜
 その地名は「津苅(刈)」、いわゆる津軽である。斉明天皇元年(655)
7月、難波(今の大阪府)の朝廷にて、津苅(刈)の蝦夷6人が冠(=冠位)
二階(=19階のうち下から2番目)を授かったと『日本書紀』にある。

 これが青森県地名の初出だが、当初から現在のように「つがる」と読まず、
現在と同じ表記「津軽」もほどなく現れるが、「都加留」と表記される場合
もあり(『日本書紀』斉明天皇5年(659)6月戊寅条)、「津苅(刈)」
表記と考え合わせて、濁らず「つかる」と読んだかもしれないという説があ
る。

 さらに、上記の『斉明5年紀』に記される「都加留」は、遣唐使が唐の皇
帝に「蝦夷は幾種あるか」と問われて、日本の朝廷の位置から一番遠い場所
に住む蝦夷を「都加留」と答えたもので、その地名は海外にも紹介されたこ
とが知られている。

 津軽の地名の古さもさることながら、海外にも知られるものだったことは、
青森の古代史として注目しておきたいところだ。      
                               

 ○津軽弁の中には標準語になかなか翻訳?できない言葉がよくあります。
その代表的なもののひとつが「あずましい」ではないでしょうか。「あずまし
い」は「気持ちが良い」、「気分が爽快」、「具合が良い」などの意味です
が、標準語では一言でなかなか言うことができません。いくつかの言い方の
例をあげてみましょう。

 風呂に入って;「いい湯っこだなぁ なんぼ あずましば」(いい湯だ 
大変気持ちがいいよ)
 寝ている猫をみて;「えのちゃぺ 布団のまんながさ あずましぐ寝でら
じゃ」(うちの猫が布団の真ん中に気持ちよく寝てるよ)
 機械を修理して;「こごとば 替えだきゃ あずましぐ うごぐようにな
ったね」(ここのところを替えたら具合よく動くようになったよ) もっと
たくさんの意味をこめた言い方があると思います。

 逆に気分が悪く状態をあらわす言葉に「かちゃくちゃね」があります。思
うようにならず、いらいらすることで、自分の主張が入れられずストレス状
態にあるときに言います。先日、青森ねぶた祭で、女性の異装ハネト(一般
にカラスハネトといわれる)数人がねぶたに参加させてもらえず、「かたく
ちゃねじゃ」と警察官に噛みついていました。

 編物の毛糸がからみあってしまい、それをほどくときにも「かちゃくちゃ
ね」です。同じく気分が悪いときには「きさわり」ともいいます。こういう
言葉をあまり使わず、人生あずましぐ過ごしたいものです。   


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○杭止堰(くいとぜき)と人柱


 お米を栽培するためにはたくさんの水が必要です。その水の多くは、川を
せき止めて枝のように伸びる農業水路に流して確保しています。
 これは、稲作文化が始まったと同時に行われていたことで、今も昔も変わ
らない技術です。数百年前は、この堰(せき)を、人の力で、土、石、木を
巧みに使い分けて造りました。そして、川の洪水に何度も堰は流され、流さ
れては作り直しました。

 岩木川に杭止堰という堰があります。そして堰のすぐ近くには、堰の神様
として川崎権太夫の霊が祀られ、毎年お祭りをしながら感謝の気持ちを今に
伝えています。
 1472年頃の春、田植えの準備をしようと堰に来てみると、春の増水で堰が
土砂で埋まっていました。すぐ復旧工事をしましたが、増水によって何度や
っても川に流され、農民はどうすることもできませんでした。
 これを見かねた水神さまの神官、川崎権太夫は、一身を神に捧げ、人柱と
なって、復旧工事を完成させようと決心しました。当時、人柱となれば水害
から堰を守ることができると言われていたからです。
 そして、連日の復旧工事で疲れ果てた農民の前で、白装束の権太夫は、堰
の守護を願って激流の川に身を沈め、尊い人柱となったのです。この犠牲に
より難工事は瞬く間に完成したそうです。

 今朝、私は県内にたくさんある人柱伝説を思いながら、感謝の気持ちを込
めてご飯をいつもよりたくさん食べました。

○知られざる青森県 10 三都の戦前・戦後

 1945年8月15日、青森県も敗戦を迎えた。しかしその前後では青森、弘前、
八戸で三者三様の姿を見せた。
 まず、青森。青森港は北洋漁業の基地として函館に次ぐ重要港だった。北
洋漁業は共産主義国ソ連の近海に出漁するため、軍事問題としても重要だっ
た。また青森は青函連絡船と東北・奥羽本線の発着・中継点として交通の要
所にあった。だから敗戦前夜の7月に大空襲を受けて市街の中心地は全焼し
た。おかげで戦後の復興は大変だった。

 次、弘前。軍都弘前は第8師団のお膝元。多数の兵士を送り出した拠点だ。
しかし不思議なことにアメリカ軍はこの地を空襲しなかった。そのため弘前
は無傷で敗戦を迎えた。けれども敗戦で第8師団をはじめ軍事施設はすべて
解体された。市の象徴を失った弘前だが、県や市の努力で弘前大学を誘致・
設立し「学都・弘前」として生まれ変わった。

 最後、八戸。八戸は工業港として発展を続けていたから、戦争中は田名部・
八戸縦貫産業道(現在の国道三三八号線)の開発や、八戸港の拡大など戦時
色濃厚だった。そのため敗戦間際に空襲を受けた。しかし、青森と違って工
業地帯への爆撃であったことと、避難対策が万全だったため死傷者は少なか
った。

 青森県の三都は、それぞれに違った運命を辿った。当然それは戦後の復興
だけでなく、そこに住む人々の戦争意識などにも影響を与えた。さ〜て、次
回からは戦後の三都についてですね。がんばろっ!

○奥州大飢饉の風景

 江戸時代後期の旅行家・菅江真澄(すがえますみ)の日記『楚堵賀浜風
(そとがはまかぜ)』に、次のような件(くだり)があります。

 「(前略)雪のむら消え残りたるやうに、草むらにしら骨あまたみだれち
り、あるは山高くつかねたり。かうべなど、まれびたる穴ごとに、薄、女郎
花の生出たるさま、見るこゝちもなく、あなめあなめとひとりごちたるを、
しりたる人の聞て、見たまへや、こはみな、うへ死たるものゝかばね也。
(後略)」

 天明5年(1785)の8月、当時32歳だった真澄は、「床前(とこまえ)」(現
在の西津軽郡森田村床舞<とこまい>)に差し掛かり、天明3年の飢饉や疫
病などで亡くなった多く人々の骸(むくろ)を目にしました。草むらに転が
る髑髏(どくろ)の目から薄(すすき)や女郎花(おみなえし)が生えて見
るに耐えない、と記しています。これは、当時の奥州大飢饉の様子を生々し
く今に伝えるものですが、真澄の文体は惨状を描写しつつも、どこか情緒的
かつ文学的なようにも感じます。

 さて、お気付きの方もいらっしゃると思いますが、「あなめ(あな、目痛)」
から連想されるのは「小野小町伝説」です。そんなわけで、次回はこのエピ
ソードについてご紹介します。

○弘前市鬼沢の「鬼」伝説

 岩木山の麓、青森県弘前市の鬼沢地域は、大規模な田んぼが広がる田園地
帯です。
 その田んぼの水は、「鬼神堰(きじんぜき)」という水路を伝い流れてき
ます。私は、水路を実際に見たのですが、林やりんご畑の広がる傾斜のきつ
い山腹を縫うように水が流れていて、水路を開いたときには、高度な測量技
術が必要で、工事も大変だっただろうと驚きました。そして、この鬼神堰と
いう水路の名前に興味を持っていましたが、由来がよく分からないでいまし
た。
 そしてだいぶ経ってから、この鬼沢集落にはいろいろな鬼伝説が残されて
いることが分かり、その中に鬼神堰の伝説もあることが分かりました。

 むかし、岩木山の麓に住んでいた鬼と村人が山中で親しくなり、相撲を取
って遊んだり、鬼が農業のことを色々と教えてくれました。その村人が田ん
ぼを開きましたが、水が乏しく困っていました。その話を聞いた鬼が、近く
の川から水を取り込む水路をつくり、村人を助けました。村人は喜び、この
水路を「鬼神堰」と呼び、鬼に感謝しました。そして、神社を建て「鬼神社」
と名付け、村の名前も鬼沢としました。

 鬼神社にある額に鬼が描かれており、角が無い優しい表情だといいます。
村人を助けた「鬼」は、いったい誰だったのでしょうか?伝説によれば、優
れた農業技術者であり、また山腹に水路を開くことのできる農業土木技術者
だったことは確かです。
 謎がいっぱいの「鬼」伝説ですが、鬼沢集落の田んぼには今でも「鬼」に
ちなんだ恵みの水が流れているのです。

○私たち日本人は平均して1年に約60kgのお米を食べています。
 そのお米を育てるには、約100uの田んぼが必要です(青森県の場合)。
田んぼにはいつも水が張られていますが、水は稲を育み、地下水を潤したり
川に戻ったり、蒸発したりするので、100uの田んぼでは、毎日1000〜2000
リットルの水が必要となります。一般家庭のお風呂に換算すると、なんと1日に
3杯〜7杯もの量になります。
 つまり、私たちは毎日お米を食べることで、知らないうちにたくさんの農
業用水を使っているのです。

 青森県の三八上北地方では、三本木原台地を開拓した新渡戸傳が有名です
が、この他にも何人もの先人たちが、一生を捧げ、財産を投げ出し、地域農
業の発展のため、不毛の地に農業用水を引き込むことに挑みました。
 それが、蛇口伴蔵(ヘビグチバンゾウ)と工藤轍郎(クドウテツロウ)で
す。

 八戸藩士の蛇口伴蔵は、「侍商人」と言われながらも黙々と資金を蓄積し、
三万両の資金を準備して、山腹に沿った水路の掘削やトンネルの掘り抜きな
ど難工事が進めましたが、漏水や洪水に遭うなどして事業は結果的に失敗し、
資金も使い果たし事業の継続を断念しました。しかし、伴蔵の開発構想は後
世にも伝えられ、国営総合農地開発事業が実施されるなど、今でも伴蔵の志
は八戸地域に脈々と残っています。

 また、七戸町の工藤轍郎は、中野留八(ナカノトメハチ)とともに、不毛
の原野で南部馬の採草地であった荒屋平地区を開墾するため、川から原野に
水を引き、水田を広げていきました。さらなる水源を確保するために、別の
疎水工事を計画し、トンネルを上流と下流の両方から掘ったところ1.2mもず
れていて、資金不足に陥り工事が失敗寸前となりましたが、野辺地町の野村
治三郎の資金援助のお陰で工事は完成しました。その後も地域の農業振興に
力を注ぎ、荒屋平を七戸地方唯一の穀倉地帯として発展させました。

 私たちの命を支えているお米一粒一粒に、たくさんの水と、その水を求め
て巨大工事を進めた先人の歴史が宿っているのです。

○青森県は恐慌・凶作だけではないぞ!

 1913(大正2)年の大凶作で、青森県は深刻な打撃を被った。やませ
の襲来だ! いつもいつも冷害・雪害に悩まされる青森県は、農業に限って
しまうといいイメージが少ない。でもね、三市の発展の歴史を知れば、そん
なことだけではないのだ。

 青森では1924(大正13)年、港の大々的な建設が完成し、青函連絡
船へ貨車が直接乗船できるようになった。これは本州と北海道の中継点とし
て発展するチャンスとなった。電信・電話など通信施設は明治早々に青森・
函館間にあったのだ。

 鉄道では出遅れた八戸でも、1919(大正8)年、八戸港へ日出セメン
ト会社が進出した。八戸はまだ市制施行していなかったけれど、昭和時代に
なって大きく発展していくことになる。このときはその基礎固めということ
だね。

 弘前だって負けていない。県内最大手の第五十九銀行(今の青森銀行の前
身)本店は弘前にあった。大正期に成立した庶民金融機関の弘前無尽は、戦
後弘前相互銀行となり、後にみちのく銀行となる。これも弘前が発祥の地だ。
弘前には、1923(大正12)年、角は宮川(後のハイローザ)がデパー
トを開業し、土手町通りは繁栄を見せた。

 三都だけではないぞ。大正時代には県内各地で鉄道が建設され、発電事業
も盛んに起こされたのだ。「知られざる青森県」も頂点に達したかな?

○なぜ青森県は県庁所在地中心主義とならなかったのか?

 今回は青森県の近現代を考えよう。他の県は、たとえば宮城県は仙台、岩
手県は盛岡など、県庁所在地に人口と政治・経済的機能が集中しがちだ。と
ころが青森県は青森市が一番人口が多いけれど、弘前と八戸が常に競合して
今日の姿になった。

 この三都の均等と競合が、近現代青森県の特徴を物語っていると思えない
か?なんで青森市に一極集中しなかったのだろう?なにがそうさせたのだろ
う?青森に対する弘前や八戸の関係を検討すれば、その周りの地域の問題が
見えてくる。

 そこで今回は、まず青森県成立時について考えよう。初代県知事の野田豁
道(のだ ひろみち)は青森に県庁を移し、弘前県を青森県とした。下北や
北海道を管轄する上で、港湾のある青森は地の利がよかったからだ。新しい
政治を始めるのに、士族がたくさんいた弘前を嫌ったのも一つの理由。「武
士の町・弘前」は古い慣習が残っていて嫌だったのかな?

 それでも明治期の最大都市は弘前で、青森ではなかった。1889(明治
22)年、青森県で最初の市となったのも弘前だった。青森は県庁所在地な
のに人口が足りず、このときには市制施行できなかった。

 しかし県庁が青森に移り、弘前の政治的立場が薄まってきたのも事実。そ
のため弘前は第8師団の誘致に奔走した。軍隊がくれば軍人とその家族が集
まって人が増える。人が増えれば街がにぎやかになる。

 一方、「県都」青森は海が近い。じゃ、海軍だ! と思うけれど青森に海
軍は来なかった。海軍は日露戦争を前後に、北洋漁業の警備も兼ね大湊に海
軍要港部(軍港みたいなもの)を設けた。青森は水深が浅く軍艦が横付けで
きなかった。弘前は軍都としての発展をめざしたけれど、青森は別の道を探
らねばならなかった。

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