−津軽の農村− | ||||||||||||||||||
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〈洋服・洋食・自動車〉 ◇大正期パン店・洋食店が繁盛し、フルーツパーラーやカフェーが出現した。 洋食洋酒をだしエプロン姿の女給が客にサービスをするような近代的なカフェーもこの頃。 県立弘前高等女学校では、和服を廃止してセーラー服を制定、県内洋装化第1号となった。 ◇自動車はまず、商店の顧客送迎と宣伝用に使われのちに乗り合いバスとして住民の足になった。少し遅れてタクシー業者も誕生。 自動車は珍しく、それを見ようと村中総出で詰め掛けた。(明治44年頃)
(昭和30年頃)
◇昭和40年市域の25農協が合併、組合員7452・職員263・36分支店のマンモス農協が誕生した。 ◇先生が「汽車に乗ったことがある人は?」と問うたところ、35・6人中手を上げたのは唯一人(村長の孫)だ けだった。(昭和13年頃) ◇電話は村の総戸数800〜900ほどに8箇所ぐらいしかなかった。 (郵便局・役場・産業組合・呉服屋・小学校3校のうち1校・先代が貴族院議員の地主の家) 母が初めて電話を使った時、受話器の送受信受けが逆さまであった。(昭和10年代)
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◆「長欠児童」 小学3年生くらいの女の子だと未就学児の弟妹を子守をかねながら学校へつれてきた。(2〜3割いた) その内幼い弟妹が背中で泣き出す。他に生徒に迷惑かけるので廊下にでる。その内先生の言うことがわからなくなって学校に来な くなる。5・6年生になると他所へ女中として雇われていくこともあった。 ◆「身体検査」 毎年1回学校医がきて身体検査をする。パンツが買えない児童が多くその日は特に欠席が多かった。 ◆尋常小学校時代はテストがなく、自動車などの交通事故の心配が全然ないので道路でよく遊んだ。 (陣取り(電柱を利用)ヅグリ回し、ベンジャ、石はじきなど) ◆「カツドウ」(活動写真) 学校の体操場や公民館の壁面を借りて年2・3回上映された。 映写中にフイルムが切れたり電気が切れたり暗闇の中、子供たちは大はしゃぎ。
◆軍隊の方がよい (監獄に近い)と恐れられた新兵生活でも、当時の次、3男はこぞって軍隊に入った。 革靴履いて、手袋も靴下も履いて、毎日3食の米の飯(麦が混ざっていても)「カレゴ」(前頁)に比べればよい。 南部出身兵(雑食が常食)はメシを3食はもったいないと思ったようだ。 「カレゴ」にとろろ飯は食わせるなは、際限がないからだそうだ。 ◆「藁と兵隊】(八甲田山雪中行軍) 対露(ロシア)戦争を予測し、耐寒訓練が各連隊に課せられ「青森5連隊」と「弘前31連隊」が酷寒の八甲田山冬季縦断踏破に挑んだ。1月24日は「山の神の日」この日は古くから大荒れし山郷の人々は互いに戒め外出を控えた。まさしくその時、低気圧が北上し青森地方に記録的な大寒波をもたらした。 結果、「青森隊」は210人中199名凍傷で死亡。だが「弘前隊」は一人の死者も脱落者もなかった。 ◆富山の薬売り お正月とともに心待ちにした「富山の薬売り」。置き薬としてどの家でも置いた。 なくなった薬を補充し、使った分の代金を支払う。その時、世相や子供の喜びそうなものを置いていった。 子供たちは、今年は何をくれるか心を躍らせた。 ◆ねんぶたっこ 今は、青森市のような「観光ねぶた・企業ねぶた」として宣伝ねぶたの感が強いが、昔は男の子が担いだり、持ったりして歩いた。4・50戸の区割りで組を作り競った。買うものは紙だけですべて手作りであり合作。灯明用のローソクと何銭かを貰っ て囃子に合わせて各家々で踊った。 「佞武多」の起源は、藩政時代中期七夕祭りの松明流しや精霊流し、盆灯篭などが変化し発達したもです。 はじめは箱形の灯篭に飾りをつけたり、山車をまねた人形・魚・野菜の形のものを担ぎまわり、1804年に組(人形)佞武多が登場したとされています。 明治40年には高さ10メートルの巨大佞武多が作られ、佞武多喧嘩も盛んになって死者をだすこともあった。 昭和20年当時と思われる佞武多運行風景(青森市) ↑クリック拡大↑ ◆縄・莚・カマスの三大藁工芸品は、冬の間の農家の貴重な副業収入であった。 縄は足踏み式製縄機が普及するまでは、若嫁などは掌から血を流したりしながら手でなったものでした。(昭和30年頃まで) 今は、石油化学製品が出回り藁細工品は民芸品となりましたが、藁は使った後腐って土に還るので、自然・環境保全には実によいものです。 ◆「ダグ」(密造濁酒) 主人が酒好きの家では清酒は買えず、「自家用特級酒」と称し密造した。 その産地として北海道まで有名になった所が濁酒醸造の町「田舎館村」。 酒税法違反の取締りが厳しく万一、現場を押さえられれば、家の老婆を出し「甘酒のつもりだった(甘酒は御免)」「いつの間にか辛くなったじゃ」といって嘘泣きで誤魔化した。 ◆昭和恐慌(農村) 金融恐慌や凶作で農村は疲弊した。 農産物の一方的な下落、化学肥料の高値、地主に収める小作料などで小農は借金に苦しんだ。 そこへ昭和6年の冷害が原因の大凶作。下層農民の生活は窮迫し、出稼ぎ、あるいは娘たちの「身売り」が激増した。 また、大豊作であっても米価の下落で「豊作飢饉」をまねき、農民生活は一層困窮した。 ◆りんご農家の「かつぎ屋」 戦後あらゆる物資が不足して農薬もなかった。唯一の殺菌剤のボルドー液、原料となる「タンパン」はメッキ工場(尼ケ崎)から札束をつんで買い求める。ヤミ売買として警察の取締りから逃れるため皆リュックに詰め汽車で運んだ。 |
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まだまだ更新が続きます。お楽しみに!! | ||||||||||||||||||
”嬉し懐かし”古今東西、農家の暮らしの移ろいなど 皆さんの思い出や情報をお寄せください。tosibora@yahoo.co.jp |